あーでもない、こーでもない、店主のひとりごとです。
海辺の散歩で「ゴミを捨てる人と拾う人」自然への敬意って何だろう、とよく考えます。
相変わらず散歩のたびにゴミを拾いますが、なければ拾いたくないのですが、ない時がないのです。
しかし、急いでいる時や海水浴の時は拾いません。
散歩している人や釣り人やら、サーファーやら。3~5年様子伺っていますが、海辺で遊ぶ人達は誰もゴミ拾いをしません。
ここ数年、仕事と個人の両方でゴミ拾いしているグループの知り合いが増えてきて、そういったことを考える機会が増えました。海遊びが好きな個人やグループでゴミを捨てる人と拾う人、集団活動でゴミを拾う人達、「環境と公衆道徳と個人の生き方」の意識が見えてきます。
地元のゴミ拾いグループの活動では趣旨が合う所がありません。
私は集団活動が苦手なため、黙々と一人の考えでゴミを拾ったり拾わなかったり、する方が向いています。
ゴミは拾って処理するだけではなく、ごみの種類を分別してデータ化するのであればいいのに、と思いますがそのような趣旨の団体は地元にはありません。
私がたまに寄付をしているグリーンピースは活動の一つとして「ゴミを拾い、分別して、ゴミをデータ化する」ということをしています。
遠州灘やここ弁天島で、私のように組織に入らず個人でゴミを拾っている人をほとんど見たことがありません。
市の職員や委託の人(ゴミの報酬がある人)か、集団の人(報酬はないが評価を受ける人)しか見ません。
報酬か評価を受けることにより動く人は、現代社会に生きる人らしい「ひと」に映ります。
ゴミ拾いをSNSなどで報告する人やグループの心理については、いつも考えさせられています。
社会に向けての「報告と個人評価」であると判断しています。
ゴミの画像を見たがる人なんていないし、私は拾ったゴミ画像を自慢げにSNSに出したくないし、人の出した生活用品のゴミは美しくも楽しくもない、悲しいだけです。
自分がここで(この土地で)生活させてもらっているという自然へ敬意のある人は、黙ってゴミ拾いをすることでしょう。
私のように、あーでもない、こーでもないなどと呟くことなどないと思います。
私の祖母が「無報酬、無評価は美徳」という考えで、長年暮らしてきた影響から払拭ができませんが、祖母の考えは正しいのでしょう。
母は祖母の真逆の考えで、俗っぽい現代人らしい考えです。
家系の美徳(偽善)として祖母の意思を受け継ぎたいですが、私は祖母のようにも母のようにもなれず、さらに集団活動は息苦しい。
あーでもない、こーでもない、終わらぬ「ゴミ問題」については考え続けたいと思います。
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